古来から日本人と共にあった昆布とその変遷
昆布は今から1200年以上も前の続日本書紀にも、献上品として記されており、
時代によって様々な流通や食し方の変化を経て、今日まで愛されています。
奈良時代
日本の歴史書に「昆布」の文字が使用された最古の例
日本の文献に「昆布」が登場する最古の例は、797年に完成した「続日本紀」の霊亀元年冬十月丁丑条とされ、この時期、昆布は朝廷への貢献品であったことがわかる。
「蝦夷須賀君古麻比留等言ス、先祖以来貢献(タテマツレル)昆布ハ、常ニ此ノ地ニ採テ」
(国立国会図書館デジタルコレクション)
平安時代
「続日本書紀」完成
「本草和名」に「昆布」の記載あり
深根輔仁(ふかねのすけひと)が勅選により編んだ博物書「本草和名(ほんぞうわみょう)」三巻には、「一名綸布。一名比呂女(ひろめ)、衣比須女(えびすめ)」とその語源が記されている(稲垣美三雄編・日本昆布大観・昭和二二年刊)。
出典:「南茅部町史」上 第6編 第1章 第1節 史書と昆布 宇賀昆布「延喜式」に記載あり
「延喜式(えんぎしき)」は律令の施行規則であり、陸奥国から昆布を税として納めさせ、神饌(神前に供える酒食)などに使うことが決められている。
出典:「本の万華鏡」第17回 日本のだし文化とうま味の発見(国立国会図書館)鎌倉時代
「廻船式目」に、海外とも交易が行われた
国際貿易港の「十三湊」の記載あり
十三湊は戦国時代までに成立したとされる「廻船式目(かいせんしきもく)」(現在の海商法に当たる法律書)のなかで「三津七湊」の一つに挙げられるなど、中世に始まる典型的な港湾都市のひとつであった。
中世後期に日本十指に数えられるなど全国的にみても北日本屈指の大規模に整備された湊町であり、日本海を舞台に津軽海峡を挟んだ北海道(蝦夷地)におけるアイヌ民族との北方産品(鮭・昆布・毛皮類など)を交易する拠点湊として栄え、安藤氏が支配した。
室町時代
「庭訓往来」に「宇賀昆布」の記載あり
元弘4(1334)年の著といわれる「庭訓往来(ていきんおうらい)」によれば、その「四月状返」において全国特産物の1つとして、宇賀の昆布・夷の鮭
が挙げられており、本道の昆布に関する最も古い記録といわれている。
宇賀昆布とは、いまの函館市銭亀沢のウンカ川付近に産したもので、この地は昆布の産地として有名であり、のちに志海苔昆布として知られるように
なったのも、この地方のものである。
また、この昆布は、すでに足利時代には若狭の小浜で加工され、「若狭昆布」と名付けられて諸国に販売された。
「宇賀」は、現在の函館市志海苔町と根崎町の一部の地域通称として残っている。
京都・松前屋創業
天皇から「松前屋」の屋号を賜り、同時に諸役御免除・名字帯刀を許され、日々の調新をはじめ諸々の儀式に使う昆布ほか、様々な品を納めてきたという。 代表商品の「比呂女」は、道南最高品の真昆布を使用し、約六年の歳月をかけてつくられる。
出典:京名物 百味會( http://www.kyomeibutuhyakumikai.jp/shop/matumaeya.html )「精進魚類物語」に「昆布」の記載あり
「精進魚類物語」、別名「魚鳥平家(ぎょちょうへいけ)」は一条兼良(いちじょうかねよし)が著者(二条良基 (にじょうよしもと)という説もあり)といわれているが、この話の筋書きでは「昆布」が大きな比重を占めており、「昆布」がかなり重要な食品であった と想像できる。
出典:「昆布の道」第3章 昆布食史年表(大石圭一著、(株)第一書房発行)江戸時代
薩摩藩琉球侵攻
四つの口貿易と呼ばれる江戸時代の外交体制は長崎口・対馬口・松前口そして琉球口を幕
府・諸藩が管理することで統制されていた。
琉球口は室町時代以降琉球王国と外交関係を保っていた薩摩藩が慶長14(1609)年に琉球侵
攻し、以降、幕府の許可のもと薩摩藩が管轄することとなる。
琉球王国は中国と朝貢貿易をおこなっていたため、薩摩藩はその貿易品の利潤を得るよう
になる。
薩摩藩の輸入品としては絹製品・丁子・生糸・鮫皮、輸出品は銀・乾昆布・いりこ・干鮑
などであった。
(国立国会図書館デジタルコレクション)
駒ヶ岳噴火、昆布船遭難 その1
松前景広が編纂した「新羅之記録(しんらのきろく)」に、次のように書かれている。
寛永十七年六月十三日 松前之東内浦之嶽俄爾焼崩レ其勢滄海動揺シテ而(汸番[ツナミ])滔[ハビコリ]來テ百余艘之昆布取舟之人殘少)所テレ(返り点)(汸 番[ツナミ])ニ而(イ水[オホレ])-死-畢ンヌ
※出典 「新羅之記録」(昭和12年11月発行 函館市立中央図書館蔵)
この文章を意訳すると、「1640(寛永17)年6月13日、駒ヶ岳が突然大噴火し、山体が壊れて泥流が流れ込み大津波が起こり、この津波で昆布漁をしてい
た百余隻の昆布取船が転覆して乗っていた人々はことごとく溺死した。」とある。
駒ヶ岳噴火、昆布船遭難 その2
「松前年々記(まつまえねんねんき)」には、次のように書かれている。
津浪商舩之者共蝦夷人共人數七百余人死
この文章を意訳すると、「津波は商船の和人、蝦夷人合わせて700人余りが溺死した」と記され、1600年代に入ると昆布漁がアイヌの人々と相当数の 和人により行われていたと推定される。
出典:「恵山町史」第4編 第2章 第1節 江戸時代の漁業 4江戸時代の昆布漁「本朝食鑑」に「昆布」の記述あり
17世紀末(1697(元禄10)年)に刊行された「本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)」による下記の記述がみられる。
昆布奥ノ松前及ビ蝦夷ノ海中ニ生ズ(中略)。松前ヨリ越前敦賀ニ伝送シ、敦賀ヨリ若州に伝送ス。若州小浜ノ市人之ヲ製シテ若狭昆布と号ス。若狭ヨリ京師ニ伝送シ、京師の市上ニテ之ヲ製シ京昆布ト号ス。其味最も勝レリ
これを意訳すると、「昆布は、松前と蝦夷の海に生えている。この昆布を越前敦賀を経由して若狭に運び、若狭で加工した昆布
を「若狭昆布」と称し、これを京の都に運んで加工した昆布を「京昆布」と称した。その味は最も優れていた」とある。
昆布の生産地 その1
(〜36年)享保年間の著作といわれている「蝦夷商賈聞書(えぞしょうかもんじょ)」には、下海岸(函館市東部沿岸)から噴火湾沿岸が「昆布」の 生産地であることが明記されている。
- トヱト申地、佐藤加茂左衛門殿御預り、出物「赤昆布」「ウンカ昆布」と申す大名物(だいめいぶつ)、「黒昆布」「シノリ昆布」、フノリ、秋の猟ハ鮫・鰤……小船ニ而箱館江通由
- シリキシナイト申地、木村与右衛門殿御預り、出物類、右同断也(産物は戸井と同じで昆布等)……箱館者共支配候、是も小船ニ而度々通由
- イキシナイ(女那川)并コブイ、この両所、御家老蠣崎内藏丞殿御預り、出物類、右同断也(産物は尻岸内と同じで昆布等)箱館者共運上ニ申請支配
- トトホッケよりオサツベ迄一〇里バカリ、此間蝦夷村沢山あり、「昆布大出所也」新井田兵内殿御預り……二百石バカリ之小船ニ而度々箱館江通由
- 臼尻よりマツヤト申所迄、志摩守様(藩主)江運上金揚げる、出物は「昆布バカリ」小船ニ而村々より箱館江昆布積通由
- カヤベト申地、北見与五左衛門殿御預り、鯡数子「昆布」夏の出物……亀田村ト申所ノ者共年々商売仕候
昆布の生産地 その2
「松前蝦夷記(まつまええぞき)」にも、「昆布 右東郷亀田村志野利浜と云処より東蝦夷地内浦獄前浜まで海辺二十里外の所にて取申候」とあり、 意訳すると「昆布は、亀田村の志野利浜(函館市志海苔町)から東蝦夷内浦嶽(駒ヶ岳)前浜間(鹿部~砂原)までの海辺20里の間で取っている」と ある。続いて、「尤献上昆布は志野利浜宇加と申処の海取分能ゆゑ取申由」とあり、意訳すると「献上昆布は、志野利浜から宇賀で採れるものの品質が良いので、そこから採る」とある。
出典:「南茅部町史」上 第6編 第1章 第1節 史書と昆布 松前昆布紀行文「ひろめかり」の昆布採取用具
寛政元(1789)年、恵山を訪れた菅江真澄(すがえ ますみ)の紀行文「ひろめかり」に、和人とアイヌが小舟に乗って昆布刈をしていたと記し、武井泊磯辺で鹿角を釣針に鰤(アイヌ語「オソボロスケ)」を釣っていたと書き留めている。
また、昆布採取に使用していた用具を写生、「婢呂綿乃具」という題名でまとめてあるが、昆布採りには鎌やネジリ又のついた竿(ソウ)、木の股を利用して竿にくくりつけた拾い鈎、石をくゝりつけた投げ鈎などが描かれて、今日行われている昆布採取用具と比較して、その形や用途など、とても百八十年の昔という時代の差を感じさせぬほどに発達していた。
出典:「尻岸内町史」 第6章 第3節 栄えゆく尻岸内場所江戸時代の昆布生産の様子
寛政11(1799)年刊行とされている狩猟漁獲をはじめとする各種産業の状況を図解で示した資料「日本山海名産図会(にほんさんかいめいさんずえ)」には、江戸時代の昆布生産の様子が活写されており、この中で、蝦夷松前では、採集した昆布を乾燥させるため、浜辺・家の上・道に至るまで昆布を敷き詰めているとした上で、「世俗に蝦夷の家ハ昆布をもって葺くと云ハ此の乾したるを見たるなるべし」と描写している。
出典:「本の万華鏡」第17回日本のだし文化とうま味の発見(国立国会図書館)(国立国会図書館デジタルコレクション)
寛政12年ころの昆布漁業
幕吏の文人 村上島之允が著わした蝦夷風俗絵巻『蝦夷島奇観』寛政12年(1800年)刊では昆布採集時期と種類について次のように述べており、この「蝦夷島奇観」の記事から、昆布の採取時期は6月土用から8月15日頃までにかけてであり、この当時の昆布の種類が、御上り昆布・志苔昆布・菓子昆布・三ツ石昆布等であったことがわかる。(御上り昆布というのは元昆布に属するものである)
- 御上り昆布、汐首岬より東シカベ海辺迄産す。長一丈三四尺、幅五六寸、紅黄緑色、採挙て清浄の地を択み乾す。五十枚を一把とし、又其上を昆布にて包十六所結び、庁に奉る。是を昆布の絶品とす。
- シノリ昆布は箱館東海に産す。長七尋余、幅一尺三四寸、緑色、味甘美、此昆布は唐山に送る。
- 菓子昆布、色黒緑、長一丈ばかり味至って甘美、汐首岬よりシカベ海底に産す。
- 夷地三つ石、ホロイヅミ・シラヌカより出る品、長七尋余、幅三四寸、緑色、此外処々より産す。雑品なり。
また、「御上り昆布、汐首岬より東シカベ海辺迄産す。(略)庁に奉る。是を昆布の絶品とす。」とあり、「函館真昆布」はその価値が長く伝えられてきたことが窺い知れる。
出典:「昆布の里」(函館市南茅部支所HP)箱館六ケ場所の昆布生産高と
価格江戸時代の昆布生産の様子
「松前蝦夷地に於ける長崎俵物の研究(白山友正、函館大学教授・1961)」に、前松前時代末の函館六ケ場所俵物諸色の生産高と価格が次の表のとおり記録されており、この時代になると昆布の価格も一応定まってきたようである。なお「真昆布」の価格は、尾札部・川汲(現在の函館市尾札部町・川汲町)あたりが最も良質の昆布生育地であり、ここの値段を最高にして、産地が戸井方面・鹿部方面にいくにしたがい値段が安く付けられた。この記録にもその傾向が見られる。
出典:「恵山町史」第4編 第2章 第1節 江戸時代の漁業 4江戸時代の昆布漁明治〜現代
坂田孫六、昆布礁造成のため湯川沖に投石
この年から20年間かけて、坂田孫六が自費で現在の函館市湯川町の沖に投石による人工礁を造成し、コンブ着生の効果が顕著だったことから、その後、渡島地方各地に人工礁がつくられた。
出典:「投石の始まり」(株式会社 鉄山協和組HP)
また、函館・湯川に鎮座する湯倉神社の境内には、投石事業による昆布礁の造成に成功した坂田孫六の功績を讃えた「坂田翁遺徳碑『連綿徳の碑』」が建立されている。
出典:「南茅部町史」上 第6編 第1章 第1節 昆布漁業 浅海増殖
「函館市内のお立ち寄りスポット」にて紹介
北海道水産調査報告 巻之三「昆布採取業」発行
札幌農学校の宮部金吾教授は、明治26(1893)年7月5日、北海道庁から海藻種類鑑定を嘱託されました。 宮部教授は昆布の生産地を実地調査のため翌27(1894)年7月9日に札幌を出発し、函館・福山(松前)・椴法華を経て尾札部に来村しました。 宮部教授はこの調査に画家伊藤有を同道して生標本を描写させ、明治35(1902)年3月、北海道庁発行の「北海道水産調査報告巻之三『昆布採取業』」に「まこんぶ」等の図版を載せています。
出典:南茅部町史 第6編 第1章 第1節 昆布漁業 宮部教授「まこんぶ調査」(注)上記の「まこんぶ」図版は、本Webサイトのトップページにも使用しています。
昭和4年の駒ヶ岳大噴火 その1
昭和4(1929)年6月17日午前0時30分ころ、道南の秀峰駒ヶ岳は、夜空に大火柱を吹き上げ大爆発を起した。しかし、その後は異状なる噴煙を吹き上げたり、かすかな地鳴りが聞こえる程度であったが、午前10時ころ一大鳴動と共に再度大爆発を起こし、上空は黒煙と火口から吹き上げる火山灰で真っ黒になり、50キロ離れた亀田村にわずかながら灰が降る程であった。このために鹿部村、臼尻村は多大な被害を受けた。死者二名のほか、重軽傷四名、その他住宅、家畜、田畑、牧場、山林、水産、鉄道、送電線など約840万円ほどの被害を受けた。被害町村も前記二村のほかに尻岸内村、椴法華村、尾札部村、七飯村、森町、砂原村などにもおよんだ。
出典:「函館市史」亀田市編 第4章 第11節 消防南茅部町史写真集「海のふるさと」
昭和4年6月17日、駒ヶ岳大噴火、このようすを昭和4年6月18日付の『函館日日新聞』は『椴法華の降灰三寸、鶏卵大の小石も交つて』という見出しに続き『椴法華電話、17日午後一時半頃より砂混じりの小石など降下し旣に三寸程堆積してゐる石も鶏卵大のものもあり相當被害も多い模様である』と記している。
また『駒ヶ岳爆発災害誌』によれば、次のように記されている。
水産
昆布:77,850円
昆布以外の海藻:12,750円
沿岸漁獲物:7,932円
復旧費:119,917円
計:218,479円
昆布の減収は昭和6年迄を見積り、其の他は旣往5箇年間の収穫平均の3箇年分を見積ったものである。 出典:「椴法華村史」第12編 第2章 第2節 戦前の噴火と津波
昭和4年の駒ケ岳大噴火 その2
※これらの記念碑は、それまで鹿部稲荷神社境内にあったものが昭和61年5月に鹿部公園に移設され、国道278号線沿いの噴火湾を望む位置に立っています。
災害復旧の歩み
駒ヶ岳噴火は、沿岸の人々に、また、自然に大きな恐怖をもたらし変化を与えたが、反面、この災害のなかを生き抜いた人びとに、そして復旧に携わった町村役場や漁業組合や村々に、尊い人間関係と、新しい生産への意欲と郷土への愛着を与え残したことも大きかったといわれている。
出典:「南茅部町史」第11編 第2章 第2節 昭和の大噴火/昭和4年6月17日
出典:町制施行30周年記念 南茅部町史写真集「海のふるさと」P74
昭和8年頃の「尾札部昆布」
昭和8(1933)年頃の尾札部村の昆布採りなど当時の様子が窺えます。
出典:町制施行30周年記念 南茅部町史写真集「海のふるさと」P81NHKテレビドラマ「横堀川」現地ロケ
(著者:山崎豊子、発行所:(株)新潮社)
昭和41年(1966年)、NHKのテレビドラマ「横堀川」が全国に放映された。このドラマは、山崎豊子の小説「暖簾」の吾平(長門裕之)と「花のれん」の多加(南田洋子)を中心に構成され、大阪商人の土性骨を描いて好評を得た。原作の「暖簾」は、大阪の昆布加工の老舗「浪花屋」に奉公した淡路出身の吾平が、昆布加工に賭ける物語である。主人公吾平が、尾札部村へ昆布の買付けに来る場面がある。
郷土南茅部のコンブが小説「暖簾」に描かれ、テレビドラマ横堀川で全国の注目をあつめた。昭和41年8月8日、主演の長門裕之が尾札部・川汲の現地ロケに来町した。8月29日、南茅部ロケの場面が放映された。郷土は、テレビの画面に魅せられた一夜であった。
出典:「南茅部町史」上 第6編 第1章 第1節 昆布漁業 小説「暖簾」の世界
出典:町制施行30周年記念 南茅部町史写真集「海のふるさと」P112
南茅部町で促成コンブ養殖が開始
昭和41(1966)年、川汲漁協において道開発局水産課の委託事業として研究助成を受け、当時の北水研増殖部長だった長谷川由雄博士の指導による促成コンブ試験調査事業(四ヵ年計画)が行われ、試験調査の結果、2年生であるマコンブを1年間で生長させる促成栽培に成功した。昭和42年から木直漁協および尾札部漁協でもコンブ養殖に取り組み、採取成績が良好であったことから、昭和44(1969)年には、南茅部町内の全6漁協において、コンブ養殖が行われ、コンブ養殖の起業化に向かって新しい時代を切り開く年となった。
出典:「南茅部町史」上 第6編 第1章 第1節 昭和20年以後の昆布漁業 コンブ養殖
函館市と渡島東部3町1村との合併
平成16(2004)年12月1日、函館市・戸井町・恵山町・椴法華村・南茅部町は合併し、現在の函館市となった。
出典:「とい」のあゆみ(現代)(函館市HP)函館真昆布ブランドの立ち上げ
函館で水揚げされる昆布は「真昆布」という種類で、厚みがあり幅が広く、澄んだ出汁がとれることが特徴で、関西を中心に料理人から高い評価をいただいています。
しかし、「真昆布」が函館産であることはあまり知られていない状況にあることから、函館の「真昆布」の知名度および認知度の向上を図るため、函館市内の5漁協(函館市漁協・銭亀沢漁協・戸井漁協・えさん漁協・南かやべ漁協)と函館市が協議し、平成29(2017)年から函館市内で生産される真昆布を「函館真昆布」というブランド名に統一してPRを行っています。
函館市5漁協 昆布出荷用パット(梱包資材)
函館マリカルチャープロジェクト始動
「函館マリカルチャープロジェクト」は、正式な計画名を「魚介藻類養殖を核とした持続可能な水産・海洋都市の構築~地域カーボンニュートラルに貢献する水産養殖の確立に向けて~」といい、函館市が事業主体となり令和4年度に内閣府「地方大学・地域産業創生交付金事業に採択されました。このプロジェクトは、キングサーモンとマコンブの完全養殖技術、さらには先駆的な取り組みとして魚類養殖により排出されるCO2を海藻養殖により吸収する地域カーボンニュートラル(RCN)による水産養殖研究を推進し、地域で養殖産業群を形成するとともに、その現場での実践的な教育研究により企業と若者を集め地域に定着させることで、持続可能な水産・海洋都市の実現を目指す取り組みです。
プロジェクトの概要および最新情報等は、こちらをご覧ください。